ロマンシングサガ3 カタリナ編 第一章8

 

 たどり着いた先は、かつて魔王と聖王だけが踏破したであろう、巨大な回廊であった。半永久機関でもって鳴動するように不気味に赤く点滅する床や壁。見たこともない奇怪な装置。細かに施された彫像の数々。
 そして、アビスの瘴気をダイレクトに浴びた醜悪な魔物たち。
 その中においてカタリナは次々と道を塞ぐ魔物を切り捨てながら、何かに取り付かれたかのようにひたすらにその回廊の最深部を目指していた。
 先ほど癒えたはずの体力は、もうとうに限界を迎えた。だが、彼女の精神は今この瞬間、何者にも勝ると確信できるほどの屈強さでもって、肉体を凌駕していた。
 
(勝てる・・・。この程度の魔物に遅れを取るほど、今の私は無力ではない・・・)

 
 二メートルをゆうに越す巨体とその背に見合う長大な剣を構えた巨人の右腕を、飛水すら断つかのような高速の払いで切り捨て、そのまま剣を巨人の左目に突き刺す。

 
「ガギャッ!?」

 
 怯む巨人を尻目に地面に着地したカタリナは、地面に刺してあった大剣を引き抜き、勢いをつけて跳躍し、巨人の心臓部に向かって爆発にも近い衝撃音と共に大剣を叩きつけた。

 声にならぬ叫びを残して絶命する巨人をちらりと確認すると、巨人の目から剣を引き抜いて穢れをはらい、カタリナは再び奥へと進みだした。
 
(私の頭に・・・体に・・・流れ込んでくる・・・戦いの記憶・・・。まだ・・・もっと私はこの記憶を使いこなせる・・・)

 
 研ぎ澄まされた神経は彼女に、彼女すら知らない数多の戦の法をもたらしていた。

 背中には大剣を、右手にはロングソードを、左手にはレイピアを。そして持ってこそいないものの、今ならば槍だろうが弓だろうが斧だろうが、彼女に操れない武器はなかった。
 幾十もの魔物を葬り、カタリナは程なくして回廊の最深部、この中に渦巻く瘴気の生まれ出でる場所まで辿り着いた。
 
「・・・この先に・・・魔戦士公アラケスがいる・・・」

 
 硬く閉ざされたその扉を前に、カタリナは確信を持って呟いた。

 思えばカタリナはこの広大に入り組んだ回廊のなかを、ただの一度でも迷うことはなかった。彼女には、ここに至るまでの道筋が「分かっていた」のだ。だが、何故自分が奥を目指しているのかは、全く分かっていなかった。
 しかし、もう自らの足を止める術は彼女にはなかった。今はもう伝説の中にしか語られぬ四魔貴族の巣食うアビスへと繋がるゲートが、この扉一枚先にあるのだ。それが分かった時には、カタリナはもう扉を両手で押し開いていた。
 思いのほか軽快に開く扉。勢いをつければ簡単に最後まで開き、カタリナはその中へと一歩踏み出した。
 
「・・・・・・!!!?」

 
 途端に、目の前の景色が変わる。そこは部屋の一室であるはずだというのに、奥が何処まで続いているのかも視認出来ず、天井すらも見えない。

 目の前にはただただ禍々しい紋章が渦巻き、その中央に漏れ出でる光は、純白であるというのに未だかつて感じることのなかったほどの瘴気を生み続けている。
 そして、彼女はこの空気を知っていた。
 
「・・・死蝕・・・」

 
 やっとの思いでそれだけを呟く。幼い日にみた史上最悪の大災害、死蝕。あの時に体感した空気が、この場には満ち溢れているのだ。

 何かに急かされるようにカタリナは部屋の奥へと進む。体は危険を訴えている。頭のどこかで先ほどまでの自分が引き返せと警告を出している。だというのに、彼女の両足は前に進むことしかしない。
 そして紋章へと近づく彼女に、その声は放たれた。
 
『・・・久しぶりの来客だ・・・。三百年ぶりにもなるか・・・』

 
 瞬間、恐怖に肌が震えるのを感じ、カタリナはその場で立ち尽くした。

 
『今度の宿命の子はどのような者かと待っていたが・・・お前は宿命に弄ばれし者ではないのだな。まさかこの場に宿命を背負いし者以外の人間が訪れることがあろうとは・・・』

 
 部屋に響く言葉の一言一言が、気がふれそうなくらいの瘴気を纏ってカタリナの耳に届く。

 
『人間よ・・・己の力でここまで来た事は褒めてやる。なかなか出来ることではない。だがその勇敢さ故に、我の戯れにより死ぬことを悔やめ』

 
 その言葉が終わると同時、カタリナの前にはあまりにも巨大な双頭の獣を鎖で従えた、真紅の槍を手にした魔神が立っていた。

 
「・・・・・・」

 
 カタリナは、言葉を発することが出来なかった。

 見た瞬間に分かってしまったのだ。この魔神に自分は殺される、と。何の抵抗も出来ることなく、この魔神の槍の一振りで自分の体はそれこそ跡形もなく消し飛んでしまうだろう。
 
『女よ、そう悲嘆するな。我は魔戦士公アラケス。戦士の身として我と合間見えた幸運、しかと感じるがよい』

 
 アラケスが手にした槍を振りかざす。カタリナには、その槍の切っ先を見つめることしか出来なかった。

 
『血を流せ』

 
 そして、槍が穿たれる。

 
「ぁ・・・ぁぁああああああああっ!!!!」

 
 気がついたときには、カタリナは背中から引き抜いた大剣をその槍の切っ先にあてがい、甲高い金属音と共に一歩も怯むことなく弾き返していた。

 
『・・・・・・?』

 
 槍を弾き返されたアラケスがさも不思議そうな顔をし、そして次にとても不満そうに顔を引きつらせる。

 
『貴様・・・我は血を流せといった。何故抵抗をする』

 
 アラケスの言葉と同時に、鎖につながれた巨獣が地の底から響き渡るような唸り声を上げる。だがカタリナは全くそれに怯むこともなく、大剣を構えてアラケスを見据えた。

 
「・・・生憎・・・私はまだ死ぬわけには行かないわ。少なくともこの手にマスカレイドを取り戻し、ミカエル様にご返上するまでは・・・」

 
 汗でにじむ柄を握りなおし、カタリナは少しずつ間合いを広げる。

 最初に合間見えた時点で、実力の差が歴然としているのは分かった。カタリナの得物も相手の槍に大きくは引けを取らぬリーチのある大剣であるが、お互いの必殺の間合い同士で闘えば、彼女の死は明白だった。
 だが、あの時はここに至るまでのカタリナであるからこそ死ぬと思ったまで。今の彼女はそれまでの彼女ではない。恐怖に一瞬全てを忘れてしまったが、今の彼女ならばどうにかする方法を思いつくかもしれない。
 
『・・・この我を目の前に、口を開けるのか。面白い・・・。問おう。何のためにここに訪れたのだ?人間よ』

 
 驚嘆したようにアラケスがかぶりを振る。それが何の冗談かは知らないが、カタリナにはそんな言葉に真面目に付き合っている余裕はなかった。この場をいかに潜り抜けるかが先決である。カタリナはアラケスのその言葉に上面だけ応えながら、必死にそれを頭の中で模索し続けた。

 
「生憎とね、私だって来たくてきたわけじゃないわ。気がついたら、ここに案内されていたのよ」

 
 それこそアラケスには意味の分からないことだろうが、カタリナとしてもそのくらいしか説明がつかないので仕方が無い。

 
『そうか。では、我がさらにこの地の先、冥府への案内を買って出てやろう。光栄に思え』

 
 カタリナの態度が気に入ったのか、アラケスは先ほどよりもずっと上機嫌な声音でそういった。そして次の瞬間には、アラケスの手から解き放たれた巨獣がカタリナに襲い掛かる。

 
「く・・・・ぉぉおおおお!!」

 
 巨獣を真っ向から睨みつけ、気合の一声と共にカタリナは地面に大剣を突き立てた。途端に、目前まで迫っていた巨獣の体が地を這う幾重もの衝撃波に切り刻まれる。

 
「ガグァァァァァァッ!!」

 
 断ち切るほどのものではなかったが、外装を切り刻まれて悶え、巨獣が足を止めた。それを好機とみたカタリナが突き立てた大剣をそのままに素早くレイピアを抜き、目にも止まらぬほどの勢いで以て強力な突きを繰り出す。

 電光石火の突きは寸分の違いなく巨獣の片方の頭の片目を貫き、巨獣はさらに絶叫する。
レイピアを巨獣から引き抜いたカタリナは加速しながらさらに突きを数度見舞い、巨獣が怯むのを確認すると地面に突きたててあった大剣を引き抜き、口元から一気に胴体ごと払いぬける。
 
 ガキンッ

 
 しかし鈍い金属音と共に、その大剣の軌道は獣の牙によって止められていた。

 
「なっ・・・!?」

 
 瞬間的に蹴りを繰り出したカタリナは、それを巨獣の顔面にあてて大剣を離させ、同時に距離をとる。

 手負いの巨獣は痛みにもがき苦しみながらも、さらに猛威を増すかのように大地すら震えるような狂気の雄たけびを上げ、再びカタリナに襲い掛かった。
 耳に劈くような叫びをなんとかやり過ごして再び地面に大剣を突きたてるが、地を這う衝撃波も二度は通じない。巨獣はその身に似合わず軽やかな跳躍をし、上空からカタリナに向かってその凶悪なかぎ爪を突き立てにきた。
 だが、カタリナはそれを先読みしていたかのように既に上空に視線を向け、抜き放ったロングソードを手に巨獣を睨み付けた。
 
「甘いわよイヌっころ・・・!」

 
 巨獣の前足をかいくぐるように態勢を低くしたカタリナは、下段から遠心力を利用した強力な跳ね上げの一撃を見舞い、さらに勢いを殺さずに腕を捻ってさらに一撃を放つ。その様まるで荒れ狂う龍の尾の如き二段の強力な切り上げは、今度こそ巨獣の二つの首を切断していた。

 
『・・・ほぅ。やるではないか、人間よ』

 
 その戦いを後方から何もせずに眺めていたアラケスは、場に似合わない感心したような声をあげてみせた。

 巨獣の返り血を拭いながらその姿をみたカタリナは、まるで自分がこの魔神の手の平で踊っているに過ぎないような錯覚に襲われた。
 
(・・・いや、錯覚じゃない・・・。今の攻防だって・・・あいつが加わっていたら私は確実に死んでいた・・・。こっちの必死な姿をみて楽しんでいるんだ・・・)

 
 巨獣の亡骸を乗り越えてアラケスに対峙する。彼女の中には今も次々と戦いの記憶が流れ込んできているが、残念なことに、それでも今のところは到底この魔神に勝てる要素は見当たらなかった。

 
『単なる人の身においてその戦ぶり、賞賛に値するぞ。我が直々に手を下してやろう・・・人間の女よ、名を名乗れ』

 
 真紅の槍を構えながら、アラケスがカタリナを見据える。瞬間、アビスから流れ込む瘴気が何倍にも膨れ上がったかのようにカタリナには感じられた。

 
「・・・ロアーヌの騎士、カタリナ=ラウラン」

 
 名乗りながら、大剣を構えてカタリナもアラケスに正面から向き合う。全身が冷や汗をかき、四肢は震え、瞳はアラケスの持つ真紅の槍を見つめ続けていた。

 ゆっくりと大剣を下段に構えたカタリナは瘴気を振り切り、五感全てを使ってその槍の軌道を見極めようと徹する。
 
『・・・その名、覚えておこう』

 
 次の瞬間には、アラケスの姿はカタリナの目の前まで迫っていた。

 
「・・・!!!」

 
 真紅の槍が再び穿たれた。必殺の軌道を持って放たれたその切っ先は、吸い込まれるようにカタリナの心臓へと差し込まれる。

 
 キンッ

 
 しかし必殺のはずのその槍は小さな金属音と共にカタリナの心臓からそれ、斜め後方の壁を貫いていた。

 大きく跳躍したアラケスは再び先ほどまでの立ち位置に戻る。見れば、カタリナは先ほどまでの場所から一歩も動いてすらいない。
 
『・・・』

 
 アラケスの見つめる先では、カタリナはやはり大剣を下段に構えたままの姿で冷や汗を流しながらこちらを見つめている。それは先ほどまでの光景となんら変わらぬものだ。

 
『・・・無行の位、といったか。研ぎ澄ます五感の全てを回避にのみ集中させ、最小限の動きで全てをいなす』

 
 槍を再び構えながらアラケスが呟いた。

 しかしカタリナはその言葉にも答えない。一瞬たりとて彼女にはほかの事に意識を向けている余裕はなかった。この構えがそんな名前であることすら彼女は知らなかったが、最早そんなことはどうだってよかった。次の一撃を避けることだけを今は考えていればいい。
 
『過去にあの若造が使っていたな・・・面白い。我の槍、何処まで避けられるか試すのもよかろう』

 
 アラケスは大きく身を捻らせ、ただでさえ強大なその力をさらに溜め込むように震動を湛えながら動かなくなる。

 そして次の瞬間には、手にしたその槍を投擲していた。
 槍はアラケスの斜め上方に弧を描くように投げられ、その槍は高速回転をしながら軌道を変え、カタリナに向かって信じられぬほどのスピードで襲い掛かる。それは単なる槍の一撃ではない。それは真紅に燃え盛り、アビスの瘴気を纏い、そしてアラケスの持つ白虎の力を凝縮させた一撃。まともに喰らえばそれこそこの肉体など消し飛んでしまうような威力をもった一撃だろう。
 だから、ここしかないのだ。
 
「ッ!!!!」

 
 全身のバネをフルに使った可能な限りの最大スピードで、カタリナはただの一歩だけアラケスに向かって飛び出した。

 そして襲い掛かる槍に大剣の切っ先をあてがい、その強大な波動を大剣に乗せ、渦巻きうねる力の暴風に身を任せるように、アラケスに向かって跳躍する。
 
『・・・!!』

 
 その瞳には、アラケスがこの場ではじめてみせる驚嘆の表情が映し出された。力の奔流を利用して瞬間的に超加速されたカタリナの身体は瞬く間にアラケスの目前に迫り、彼女は両手で握り締めた大剣に己の全てを賭けた。

 
「ォォォオオオオオッ!!」

 
 空気を切り裂くような甲高い音が、空間に響き渡る。先ほどのロングソードで放たれたものとは比べ物にならぬ、大気を切り裂くほどの神憑り的な破壊力を持った刹那の二段斬り。それは確実にアラケスを捉えていた。

 
 ドンッ!!!

 
 勢いを殺しきれずにそのまま壁に激突したカタリナが全身の痛みを堪えて振り向くと、そこには右腕を切り飛ばされてこちらを振り返るアラケスが見えた。

 
(・・・な・・・!確実に首を捉えたと思ったのに・・・!)

 
 立ち上がることも出来ぬまま、カタリナは絶望に彩られた表情でアラケスがこちらに完全に向き直るのを見ていた。

 アラケスは己の槍をその左手に持ち替え、静かにカタリナを凝視している。
 
『・・・我が必殺の一撃を逆に利用してこの身に傷をつけたか。無行の位はそのための囮だったのだな・・・人間よ、実に美しい剣戟であった』

 
 左手に槍を構えたアラケスは、身動きのとれぬカタリナの目前までゆっくりと歩み寄った。

 
『さりとて我がアビスの波動、人間の身には堪えるであろう。最早立ち上がるもままならぬようだな』

 
 そして槍は振りかぶられた。カタリナはその切っ先を、最早持ち上げることすら叶わぬ大剣を握り締めて見つめる。

 
『先の死蝕は、我に更なる力を与えた。この槍、最早あの男ですら避けられぬはずであっただろう。それを貴様は避けたばかりでなく、我に対する刃と成した』

 
 アラケスは過去を思い出すようにどこか遠くを見つめ、そしてカタリナに向き直った。その表情は歓喜に満ち溢れている。

 
『強き人間よ。我に至福の時間を与えたこと、褒めて遣わす』

 
 その言葉と共に自らに向かって振り下ろされた槍の切っ先を見つめたのを最後に、カタリナの意識はそこで途切れた。

 
 


 
 蔓延る魔物を飛び越え、吹き抜けを貫通する階段を駆け上がる。その先にある祭壇を必死の思いで走りぬけ、トーマスとシャールは魔王殿の入り口を這い出すように飛び出した。

 長い下り階段の手前まで辿り着いた二人は、同時に魔王殿にむかって振り返る。見上げるその巨大な城は、うねるように周囲の空気を豹変させながら鳴動していた。
 
「馬鹿な・・・こんな瘴気の渦などありえない・・・何が起こったというのだ・・・」

 
 息を切らせながらシャールが呟く。同じように息を切らせたトーマスもその異様の光景を見て愕然としている。

 
「・・・まさか、アビスゲートが開くとでもいうのか・・・」

 
 普段の丁寧な口調すら忘れ、トーマスもそう呟いた。

 未だ鳴動を続ける魔王殿は、最早その存在自体が生き物であるかのように脈打っているようにも見える。
 最下層を目指していたシャールとトーマスは、丁度玉座の間に辿り着くかつかないかの頃にこの鳴動の始まりを察知し、恐怖に駆られるままにやっとの思いでここまで逃げ出してきたのだった。
 
「・・・とにかくこのままではいつピドナ全体がこの馬鹿げた瘴気に包まれてもおかしくは無い・・・。一刻も早くミューズ様の元に戻り、この地を離れなければ・・・」

 
 この状況では、既にカタリナの捜索どころではなかった。あのまま魔王殿の中にいれば、二人の命などそれこそこの瘴気の渦にいとも簡単に押しつぶされて消えていただろう。

 それはトーマスも十分に理解していたのだろう。階段を急いで駆け下り始めるシャールを、無言で追いかけた。
 長い階段を駆け下り、無駄に広い庭園を突き抜けてピドナの旧市街に辿り着いた時、背後に渦巻くその瘴気はもはや最高潮に達していた。
 旧市街の住民もその魔王殿の光景に恐怖し、既に騒然とした雰囲気に包まれている。魔王殿の入り口付近に集まった住民をかき分けてミューズの待つ家へと二人が急ぐと、そこには不安そうな表情で家の前に立っているミューズとミッチ、そしてゴンの姿があった。
 
「ミューズ様っ!ここは危険です、一刻も早く離れましょう!」

 
 出会い頭にシャールはミューズに駆け寄りながら言った。ミューズは恐がって自分に抱きつくミッチとゴンを護るようにして立ち尽くし、二人を出迎える。

 
「何が・・・何が起こったのシャール・・・。こんな禍々しい空気は、死蝕以来はじめてだわ・・・」

 
 彼女自身も不安なのだろう。子供二人を抱える手は細かく震え、青白い顔で魔王殿の方向を見つめながらシャールに問いかける。

 
「・・・わかりません。カタリナ殿を探していたら、突然瘴気が暴走を始めてしまったとしか・・・」

 
 恐がるミッチとゴンを撫でながらシャールが答える。それにあわせてトーマスも二人に歩み寄り、魔王殿に視線を向けながら口を開いた。

 
「我々よりも奥には、おそらくカタリナ様しか行っていません・・・。何かがあったとすれば、あるいはそれはカタリナ様が関係しているのではないでしょうか・・・」

 
 何かの間違いで、カタリナが魔王殿最深部に眠るアビスゲートを開いてしまったのではないか。トーマスはそう言いたいのだろう。この状況を見る限りでは、実際可能性としてはそれが一番濃厚ではあった。

 
「・・・とにかくこのままでは瘴気がこの町を覆い尽くすのは時間の問題でしょう。ミューズ様、シャール様の仰るとおり一刻も早くここを離れたほうがいいです。取り急ぎ用意できる家となると限られてしまいますが、私がご用意します」

 
 心配そうな表情でこちらを見つめるミューズに向かい、なるべく安心させるよう勤めて抑えた声色でトーマスが喋る。

 
「シャール様も、今はそれでいいですね?」

「・・・すまない。ここはお言葉に甘えるしかないようだ」
 
 そういってシャールが立ち上がった、その時であった。

 魔王殿から発せられる瘴気の一部がまるで殻を破ったかのように弾け飛び、それは巨大な獣の姿をとって空に飛び出したのだ。
 
「な・・・!?」

 
 その波動を感じ取ったトーマスとシャールが上空を見上げた時には、その巨大な獣らしきものは空中に大きく瘴気の弧を描いて飛翔し、幾度かの瞬きの間にトーマスたちの居る家の前の小さな広場に音もなく降り立った。

 雄雄しく、そしてあまりにも禍々しい瘴気を身に纏ったその双頭の獣は、ゆっくりとトーマスたちに振り返る。だがその瞳は何も映してはおらず、頭の一方の片目は何か刃物に貫かれたように抉り取られていた。
 慌ててシャールとトーマスが、ミューズと子供たちを守るようにその獣と対峙する。だが、二人ともこの獣が自分たちでは間違いなく勝てぬほどの力を持っていることを、見た瞬間に理解してしまっていた。
 だが不思議なことに、先ほどまで魔王殿から発せられていた瘴気はこの瞬間にはたち消え、町全体を押しつぶすような威圧感はすっかりなくなっていた。だからこそ二人も、即座にこの獣に反応して対峙する態勢をとることができたのだ。
 
「・・・まって、二人とも。この獣は私達を傷つける意思はないみたい・・・」

 
 何を思ったのか突然、ミューズはシャールとトーマスに声をかけ、獣の前に歩み出た。

 
「ミューズ様・・・!?」

 
 驚いたシャールがミューズを引き下げようとするが、ミューズは首を振ってそれを拒否すると、ミッチとゴンをシャールに任せて一歩獣の前に歩み出た。

 何を喋るでもなくミューズがその場に立つと、獣は頭をたれ、そして口を開いた。
 
『覚えのある気かと思えば、あの男の従者の子か・・・まぁよい。お前に任せよう』

 
 獣の口を通じて、別の何者かの声が響き渡る。その声は地の底から響き渡るような重苦しい響きで、聞いているだけで気分が悪くなるようだ。

 
『この者を生かせ。あの男を越えるほどの存在なれば・・・今の我を更に楽しませることもいずれできよう。これは我が現界するまでの戯れに過ぎぬ。我の手により消えるまで、生きるがよい』

 
 一方的にそれだけいうと、獣は途端に色を失った。

そのままミューズが疑問符を浮かべながら見ていると徐々にその巨体は風に吹かれて崩れ始め、最後には塵となって消えてしまったのだ。
 そして直前まで獣のいた場には、全身ボロボロの姿で左肩から大量の血を流して倒れているカタリナの姿があった。
 
「カタリナ様っ!!」

 
 その姿を確認したトーマスがすぐさま駆け寄る。抱き起こしてみるがカタリナに意識はなく、微かに呼吸をしていることがなんとか分かるという程度にまで弱りきっていた。

 
「・・・いけない、早く治療しないと・・・とにかく家の中に一端運びましょう」

 
 ミューズがその容態をみて自分の家を指差しながら言うと、それに頷いたトーマスは素早くカタリナを抱き上げた。

 
「・・・瘴気がすっかり消えた・・・。あの獣を城の外に出すためだけにあの渦を作り出したというのか・・・。まさか、今のは魔戦士公だとでも・・・?」

 
 家にカタリナを運び込むトーマスを横目に、魔王殿を見つめながらシャールが呟く。だが今はカタリナの容態を見極めるのが先決である。未だ混乱の冷めやらぬ外の喧騒を背に、シャールもすぐに家の中へと入っていった。

 

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第一章・目次