昼間から崩れ始めた天候は大方の予想通り、夕刻前には天を覆い尽くさんというほどの黒い雷雲が犇き、時折雷光を放つほどになっていた。
とはいえ、霊峰タフターンを南東に臨むこのロアーヌの地は特に死蝕以降は天候の差異が激しいので、別段この程度の雷雲ならばそう驚くほどのことでもない。
だというのに廊下の窓辺に一人佇んでずっと外を眺めていたモニカは、この日に限ってずっとその空模様を見つめ続けていた。見続けたところで間もなく降り出すであろう雨が止むとも思わないが、しかしそうでもしていなければ、彼女も落ち着かないのだ。そのまましばらく佇んでいたモニカは、城全体を歩き回っている夜警が二度も自分の背後を通り過ぎた頃になって、ようやく部屋へときびすを返して歩き出した。
去り際にもう一度、窓の外を見やる。その窓の外にはモニカが丹精こめて育てている花壇があるが、今はそんなものが心配で長時間窓の外を見ていたわけではない。彼女が心配なのは城を留守にして魔物討伐へと向かっている兄・・・若干二十七歳にしてロアーヌ侯の座に就く、ミカエルのことだ。
普段から寡黙な兄であるが、ここ最近はことさら寡黙であった。
さかのぼること三ヶ月前、先代ロアーヌ候にしてモニカとミカエルの父であるフランツの崩御が世間を沸かせてからというもの、その後継として侯爵の地位についた兄はまさに働き詰めであった。父の死を悲しむ間もなく行政に明け暮れる日々を送る兄を見ながら、モニカは何度涙しただろうか。敬愛する兄の苦労に対して何も出来ぬ自分が、あまりに情けなくてならなかったのだ。
ここ最近に至り、モニカは特にそう感じている。如何に自分が甘やかされて育ってきたのかを、ここしばらくの自らの無力ぶりが証明しているのだ。
だから、彼女は帰り道にある謁見の間の前で立ち止まってしまったのだろう。
兄が会議詰めの時は半日近くも出てこないことがある、謁見の間。
祭事や大きな政でもないかぎりは自分が入ることはほとんど無いその扉にそっと寄りかかるモニカの耳に、その会話は聞こえてきた。
「ようやくこの時が来たのだな・・・」
一日も欠かすことなく手入れされた絨毯の上を歩きながら、ロアーヌ男爵ゴドウィンは目前の玉座を見上げた。薄暗い中に鎮座するその玉座は、それ自体が非常に高貴な存在にさえ見える。
「左様で御座います。本討伐にロアーヌ候がはじき出した戦力はなるほど経費をかけぬ実に合理的な数で御座いました。・・・我々が押しつぶすには容易すぎるほどに」
大臣の言葉を聴きながらゴドウィンは玉座へと腰掛ける。重厚なつくりの玉座はすばらしいすわり心地だが、若干彼には硬すぎるようにも思えた。
「押しつぶせ。そのために我々はこの三ヶ月、ここまで準備を進めたのだ。先代亡き今、あのような若造にロアーヌの地を任せることなどまかりならんのだ。この私が侯爵となり、先代の遺志を継いで見せようぞ」
謁見の間の側面に設けられた窓から差し込む雷光にうつる彼の瞳には、狂気を孕んだ光が宿っていた。
「その際は、私のこともどうかお忘れなきよう・・・ゴドウィン男爵。いえ・・・ロアーヌ候ゴドウィン様」
そういって下品な笑い声を立てる大臣。ゴドウィンもつられて笑うが、その笑い声はどこか空虚である。
「はっはっは・・・・・・。そうだ、念には念を入れるのを忘れてはいかんな。大臣よ、近いうちにモニカを捕らえおけ。万が一の事態には役に立つだろう。今のうちは殺しさえしなければどう扱おうがお前に任せる」
「かしこまりました・・・」
にやりと笑みを浮かべながら一礼する大臣をみて、ゴドウィンは再び意味もなく笑いがこみ上げてきた。彼はそのまま衝動に任せてただ笑い続けた。
雷鳴轟く中のその密談は、それこそ謁見の間の扉に耳を当ててでもいなければ聞き取れないであろうほどに、雑音にまぎれていた。
部屋の中から見える黒雲は、次第にその濃度を増している気がした。何度も窓の外をみやるが、特にその行動に意味そのものは無い。そうしていないと落ち着かない、というだけなのだ。
カタリナはテーブルに頬杖をつきながらそうして何度も窓の外を眺めつつ、部屋の主であるモニカの帰りを待っていた。
ミカエルが遠征に赴いてからのここ数日、お兄様が心配だお兄様が心配だと始終部屋の中をうろつくモニカに少し散歩でもして気分を鎮めたらどうかと先刻提案したのは、誰あろう彼女の侍女を務めるカタリナ自身だ。
悩んだ末にそれを承諾したモニカだが、付き従おうとするカタリナを制し、一人で行ってしまった。
途方にくれたカタリナは仕方なくこの場で待つことにしたのだが、これがなかなかどうして部屋の主の帰りが遅い。よもや城の中とはいえ何事でもあったのだろうかと、カタリナはそわそわし始めていた。
「ミカエル様が心配なのは私も一緒だけれど・・・こういうときこそ私がモニカ様をお支えして差し上げないといけないのに・・・」
ミカエルのことも心配だが、帰ってこないモニカも心配である。ここまで気苦労の耐えない兄妹に仕えるのも大変だな、などと心にもないことをぼんやりと思い浮かべて苦笑していると、ばたばたと廊下から忙しない足音が聞こえてきた。
どうやら相当急いでいるようだが、恐れ多くもロアーヌ候の妹であるモニカの部屋の前でこのような足音はいただけない。丁度時間を持て余していたのも手伝い、一言注意でもしてやろうとカタリナは物憂げに椅子から立ち上がった。
振り向いて扉に向かおうとすると、それに呼応するかのように足音もこちらへと向かってくる。今宵廊下を走り回る輩は、どうやらいい度胸をしているようだ。
「足音からすると兵士じゃないわね・・・侍女かしら」
様々に考えをめぐらせながら扉へと向かう。その間も足音はこちらへと近づいてきており、ひょっとしたらこの部屋が目的地なのかもしれない。
「・・・・・・」
思い直したカタリナは、扉の目の前で立ち止まった。そして待つこと数瞬。案の定、足音はこの部屋の前で止まり、勢い良く扉が開かれた。
「カタリナ、大変なのっ!!」
とりあえず注意してやろうと思って両腕を胸の下で組んで待っていたカタリナは、飛び込んできた金髪の少女に面食らってしまった。
「モ、モニカ様?一体どうなされたのですか・・・?」
よもやモニカ当人がこんな風に走ってくるとは露ほども思わなかったのか、居場所をなくした両腕をわたわたさせながらカタリナはモニカをとりあえず部屋の奥へと導く。若干息を切らせながらそれに続いたモニカは、先ほどまでカタリナが座っていた椅子の前あたりまで来ると、カタリナの両手をつかんで、何故か声を押し殺したようにしゃべり始めた。
「・・・繰り返すけど、大変なの。今私、謁見の間でとんでもないことを聞いてしまったのよ」
モニカの様子にただならぬ空気を感じたのか、カタリナは居住まいを正してモニカの話に耳を傾けた。
「謁見の間で、ゴドウィン男爵と大臣が謀反の相談をしていたのよ。男爵たち、魔物討伐に小規模の軍隊をつれて出ているお兄様を・・・」
そこまで言って、モニカは口をつぐんでしまった。しかし、それだけ言ってもらえれば状況を判断するには申し分ない。
「・・・それは確かなのですね?わかりました。では私がすぐ馬を出してミカエル様にお知らせに上がります」
どうやら事態は一刻を争うようだ。
既にミカエルが遠征に出てから幾日かが経過している。ミカエルの手腕ならばもう既に討伐は終えていると考えて間違いないので、帰路に着き始めているかもしれない。そうなれば、事を起こすとしたらもう間もないはずである。
しかし、踵を返して歩き出そうとするカタリナを止めたのは、誰あろうモニカ自身であった。
「・・・モニカ様?」
「待って、カタリナ。お知らせには・・・私が行くわ」
真摯な目をしてカタリナを見つめるモニカ。しかし驚いた様子のカタリナは、とんでもないという風に首を振った。
「何を仰るのですか。このような天候の中、馬で外に出るなど余りにも危険です。このまま雨が降れば、馬術に長けたものでも危険であるというのに!」
普段こっそりとカタリナ自身がモニカに剣術や馬術を教えてはいるものの、流石に今日の天候では馬を御するのはいくらなんでも無謀なことだった。
だが今度はモニカが首を振る番である。モニカはもう一度カタリナの両手を強く握りながら口を開いた。
「聞いて、カタリナ。男爵は万が一を考えて・・・私を人質にとろうとしているの。私がここに残ってもお兄様に多大なご迷惑をかけてしまうだけなのっ!お願い、カタリナ。私を行かせて!」
「し、しかし・・・」
モニカのいつになく真剣な声音に、カタリナはすっかり気圧されてしまった。齢十五の頃からずっとモニカの傍にいた彼女でも、ここまで声を荒げるモニカを見たことはなかった。
「お願いよ、カタリナ。私、必ずお兄様にこのことを伝えて見せるわ。だから、貴方はここに残って、私がいなくなったということを出来る限り男爵たちに知られないようにして欲しいの!」
この少女の目にはこんなにも力があっただろうか。カタリナは場違いにもそんなことを考えてしまっていた。流石は兄妹というべきか。モニカの目にも兄と同じく、どうあっても逆らえない王者の気質がしっかり備わっている。カタリナには、この目に逆らう術はなかった。
「・・・分かりました。ではそのようにいたしましょう・・・」
悩む暇も無い。カタリナがため息混じりにそういうと、モニカは一転して笑顔になった。
「ありがとう、カタリナ!じゃあ私はすぐ着替えてくるわ!」
そういって、自らのクローゼットへとモニカは駆けていった。
「やれやれ・・・ね」
それを見送ったカタリナは、自分の腰に刺してあった予備の小剣と、棚にあった雨凌ぎ用のローブ、そして路銀をいくらかまとめ、部屋の窓際にある鏡の前でモニカを待った。
程なくしてモニカが遠乗り用の格好で歩いてくる。
「こちらを・・・」
カタリナが用意したものをモニカに渡すと、それらをすべて身につけたモニカは鏡の脇にある模様の一つを不意に引っ張った。すると、仕掛け鏡になっていた鏡面部分は消え去り、その先には薄暗い階段が下へと続いていた。
「では、お気をつけて・・・」
「ええ、必ずお兄様にこのことを伝えてみせるわ。それじゃあ」
言うが早いか、モニカは軽快に階段を駆け下りていく。隠し通路はいくつかのルートの一つが遠乗り用の馬小屋に直結しており、程なくして窓の下を走り抜ける駿馬の姿がカタリナにも確認できた。
「どうかご無事で・・・」
暗雲の下を走り去る馬を見ながら静かにそう祈った彼女はすぐに鏡を元に戻し、表情を険しいものへと変えて部屋の中央に向き直った。
「・・・さて、どうしたものか・・・」