「ミューズ様!ミューズ様!」
給仕のマリスンが自分の名前を呼びながら宮廷の庭を右往左往するのを、ミューズは息を殺して身動きをしないように注意しつつ、木の上からにんまりとした表情で眺めていた。
「ミューズ様!ミューズ様!・・・もう、どこに行ったのかしら・・・」
やがてマリスンが諦めて別の場所を探しに向かうとミューズはその場で一息ついて、木の葉の間から差し込む陽の光を眩しそうに見上げた。
「マリスンには悪いけれど・・・こんな天気のいい日にサロンで篭りっきりなんて勿体無いわ」
その日、ミューズはピドナ宮殿で毎週開かれる淑女サロンに足を運んだのだが、あまりにいい天気に誘われて思わず外に飛び出して来てしまった。
いつもの通りに宮廷の渡り殿を歩いていた時に空を見上げたら、流行のドレスに身を包んだレディ達が競い合うように自らを誇示しつつ宮廷に入っていく様をお日様が笑っている気がして、ふと自分がその中に混じっているのが少しだけ億劫になったのだ。
そうして気がついたら庭先まで駆けていて、慌てて追いかけてきた給仕のマリスンを撒くために手ごろな高さの木を見つけて、飛び乗ったのだった。
「そうだ、折角だし宮殿内を探検してみようかしら」
普段はあまりこんなことをしないので内心少し高揚しながら、ふとそう思い立ったミューズはいそいそと木から降りてお尻のあたりを軽く手で払い、サロンとは反対方向に歩き出した。
父であるクレメンスが王宮の近衛軍団を率いている立場上、ミューズは世界最大国家であるこのメッサーナ王国の中心地たるピドナ王宮内でも、周囲とは別格の扱いを受けていた。
王の血族によるロイヤリティの存在しない王国であるこのメッサーナでは、他国とは幾分異なる宮廷内事情が渦巻いていた。
この国では次期国王を養子相続で選出するところから、宮廷内では次なる王を見極め、如何にその人物に取り入るかが次期治世の元での派閥の進退に大きく関わる。
次なる王に重宝される事こそ、世界最大国家であるこのメッサーナ王国での最も大きなステータスなのだ。
そして今現在の次期メッサーナ国王として最も有力視されているのが、古くからのメッサーナの名族に名の上がるクラウディウス家の現当主、クレメンス=クラウディウス。ピドナの王宮近衛軍団長にして、ミューズの父親であった。
メッサーナ王国は現在の世界地図上の実に三割もの面積を支配しており、その領土内には複数の軍団が駐在して各地の治安を守っている。
代表的な所は王宮お膝元の近衛軍団、北のファルス軍団とスタンレー軍団、南はリブロフ軍団、そして近年は温海地方の海上を監視する目的でピドナの南西にあるエデッサ島にも砦を設けて軍団が配置された。
そんな中でここ数世代の流れとして、養子として次期国王に迎えられる人物は必ずピドナの近衛軍団長を歴任している。つまり近衛軍団長とは、次期国王のポストと同格と見なされていたのだ。
(つまり、お父様の未来は確約されていた・・・。アルバートおじさまがお亡くなりになるまでは・・・)
七年前、偉大なるメッサーナの王であるアルバート王が崩御した。その前年に全世界を襲った大災害、「死蝕」による心労が祟ったという。
アルバート王は治世としては非常に保守的な政治を好んだが、ミューズは幼い頃の記憶ながらも彼の事が嫌いではなかった。
良くお菓子をくれて、そしていつも必ず頭を撫でてくれたのを覚えている。
だが彼はその崩御までに、少なくとも二つの過ちを犯したと世間に言われている。
一つは、死蝕の直前に死蝕を予言した天文学者を火炙りの刑に処した事。もう一つは、養子を正式に指名しなかった事だ。
死蝕に備えるチャンスを無碍にした愚王と世間には罵られ、更には次期国王を書面により選出しなかった事で、あれから七年経つ今も、この国に新たな王はまだいない。
継承の為されぬままに王を無くした大国は今、立国からこれまでに歴史上類を見ない規模の内乱という癌を抱え、大きく軋み始めていた。
その内訳は主に、事実上の次期国王が決定していたクレメンスを支持する者と、正式な継承号令がなかった事を理由に異を唱える者達との間で起きている対立が其れに当たる。
(・・・お陰で、今では私を割れ物のように扱う方と、敵意満載で見つめる方ばかり。最近はサロンにも顔を出し辛くなった気がするわ・・・)
通常は齢十五辺りから通い始める王宮のサロンもミューズは十二歳で通い始め、その教養も今では同年代の誰もが及びつかないものを持ち、周囲の年上のレディを相手に社交界を渡り歩いてきた。しかし近年は以前にも増してクレメンスに気に入られたい、もしくは弱みを握りたい一心で彼女に接近する人物が数多く、ミューズは最近特にそういったものを疎ましく感じてしまっていたのだった。
そんな王宮内の華やかさと内乱による血生臭さが混同する空気にいよいよ耐えきれなくなっていた彼女は、ついうっかり、あまりの陽気に誘惑されてしまったのだろう。
「まぁ・・・あれは、近衛軍団の実技演習ね。お父様はいらっしゃるかしら」
もやもやした気持ちを抱えながら当ても無く歩いていたミューズは、普段聞き慣れない金属音に誘われて庭園から下に顔を覗かせた。するとそこでは、近衛軍団の面々による訓練が行われている真っ最中であった。
その場で軍団長である父の姿を捜し求めてみるが、如何せんここの位置は人を見分けるには距離があった。
「・・・遠くて見辛いわ。もう少し近くに行ってみましょう」
早速キョロキョロと周囲を見渡して下に降りる階段を発見したミューズは、嬉々として下っていった。
別段ここで父に会いたいと考えたわけではないが、あまり父が普段はこういったものを彼女に見せたがらないものだから、逆に興味をそそられたのだ。
「ここはどこかしら・・・」
近くから訓練の音は聞こえていたものの、今一近くに出られずにウロウロしているうちに、ミューズはすっかり方向感覚を失って王宮の庭園内で迷子になってしまった。
昔からクレメンスは必要以上にはミューズを王宮内には近付けなかった為に、彼女にはここの構造があまり分からないのだ。
内乱中は元より、その前でもミューズの立場は良からぬ事を考える輩にも狙われやすい。そう言った意味ではクレメンスの判断は勿論正しいのだが。
「うーん、どうしましょう・・・」
しかしそんな父の心配とは裏腹に今一緊張感に欠ける声でそう呟いたミューズは、気を取り直してあたりを散策する事にした。ピドナの庭園は一年を通して様々な花が咲き誇ることで有名で、自分でも花を育てているミューズには興味の尽きない場所でもあったのだ。
「あら、ステキな薔薇! 何の品種かしら・・・」
早速庭園の一角に見慣れない淡い紅色の薔薇を見つけ、駆け寄る。それは彼女が知る品種にはない形をしており、色合いもとても美しい。手元に図鑑があれば良かったのに、なんて事を思ってみたが、今は無いので、兎に角帰って調べられるようにこの薔薇を目に焼き付ける事にした。
そうして暫く飽きもせずに薔薇を眺めていると、背後に人の気配を感じた。しかしミューズがそれに気がついた時には、その人物は何時の間にやら彼女の横に立ち、薔薇に目を落としていた。
「・・・珍しい薔薇だろう? これにはまだ名前はない。昨年に作出されたものだ。クレメンス様がいたく気に入っていてな。名前をそう・・・ご息女のお名前にするんだ、なんて仰っておられたな」
それは少し低めで、よく通る声だった。見上げると、日に焼けた浅黒い肌に鋭い眼光を湛えた、精悍な顔付きの青年が立っていた。
「まぁ、それではこの薔薇の名前は、『ミューズ』になるの?」
「そうなるな。クレメンス様のご息女であるミューズ様を私は拝見した事こそないが、きっとこの薔薇に似てさぞお美しいのだろう」
「まぁ・・・殿方に直に其の様に仰られると、恥ずかしいわ」
照れ照れしながらミューズが顔を赤らめて笑いかけると、そこで漸くミューズへと視線を向けた青年は、目を点にして彼女を見つめた。
青年の瞳には、艶やかな海色の髪をした白い肌の少女が映る。
数秒の間見つめ合ってから、やっとの事で青年は口を開いた。
「えっ・・・と、え・・・まさか、ミューズ・・・様・・・?」
「はい。あ、申し遅れました。私、ミューズ=クラウディア=クラウディウスと申します」
ゆっくりと立ち上がってドレスの裾をつまみ上げながら優雅にお辞儀をしたミューズに、青年は今一度驚愕の表情をして、次の瞬間には即座に二歩後退して地に膝をついて俯いた。
「た、大変失礼を致しました! 私は近衛軍団所属の騎士、シャールと申します!そ、その・・・このような時間にこのような場所におられたものですから、城仕えの者の親族かと勘違いをし・・・まさかミューズ様ご本人とは露知らず、大変なご、ご無礼の数々を・・・」
慌てふためきながら口早にそう言ったシャールだったが、クスクスという笑い声が聞こえてきて、思わず顔をあげた。
するとそこには、鈴を転がしたような可愛らしい声で可笑しそうに笑うミューズの姿。
そんな彼女にひどく困惑した表情を向けたシャールがまた可笑しくて、ミューズは暫くの間は笑いを抑えられなかった。
「ふ、ふふ、ご、ごめんなさい。あんまり切り替わりが機敏だったものだから・・・、お、可笑しくって・・・」
「は、はぁ・・・」
漸く笑いが収まってきた所で、ミューズはぺこりとシャールに頭を下げながら言った。
対するシャールは膝をついて地面を見たままで不動の構えだ。
「シャールさんって、お父様からお名前は聞いた事があるわ。近年の近衛軍団所属の騎士の中でも群を抜いた実力の持ち主で、将来有望な方だ、って」
「いえ、滅相も御座いません。まだ私などは・・・」
そう言って只管に頭を垂れるばかりのシャールに合わせて、ミューズはその顔を覗き込むように屈みこんだ。
「・・・ねぇ、シャールさんは薔薇に詳しいの?」
「いえ、そう言うわけでは・・・。ただ、クレメンス様がよくミューズ様のお話をなさって、ミューズ様は花がお好きだと聞かされているうちに、この庭園にあるもの位は自然と・・・」
「まぁ、お父様ったら、存外親馬鹿なのね」
近衛軍団長も、愛娘にかかれば形無しのようだ。
父親をそう評したミューズは、目線を合わせずに俯くシャールに向かって再度語りかけた。
「ねぇ、シャールさん」
「ミューズ様。どうか、私のことはシャールとお呼びください」
「じゃあ、シャール。こちらを向いて?」
ミューズのその言葉に、おずおずとシャールが顔をあげる。すると、目と鼻の先の位置にミューズの顔があり、その藍色の瞳が自分を映しこんでいた。
「・・・!?」
驚いてすぐに顔を戻し、更に後退りしようとするシャールの顔に、それを阻むようにミューズの両手が添えられた。
「お父様は、人と話す時に目を合わせるな、と教えているのかしら?」
「・・・・・・いえ」
シャールが瞬きをしながら顔をあげて答えると、ミューズはにこりと微笑んだ。
「シャールの瞳って、黒いのね。生まれはナジュ?」
「・・・いえ、私自身はピドナの生まれですが、血筋にあるとは聞いております・・・」
「そうなの。ナジュの血は勇敢だと言われるものね。きっと貴方の戦う姿は、とても雄々しいのでしょうね」
そこで漸くミューズはシャールの顔から手を離し、再び薔薇へと目を移した。
「ねぇ、この薔薇の苗って、お願いしたら分けてもらえるかしら」
「ええ、大丈夫でしょう。早急に、私から庭師に進言しておきます」
シャールのその言葉に再度にこりと笑うと、ミューズはすっと立ち上がった。
「どうせなら、今から頼みに行ってみましょう。ねぇ、シャール」
そう言って屈んでいるままのシャールに、ミューズは片手を差し出す。
「一緒に、来てくれる?」
シャールは狐につままれたような表情でそれをみていたが、数秒のためらいのあと、目を細めてその手を控えめに取りながら立ち上がった。
「・・・お供いたします」
「ふふ、それじゃあ、よろしくお願いしますね」
そう言って可笑しそうに笑うミューズに相変わらずシャールは困惑気味の表情だったが、ひとつ肩を竦めると、庭師が居るであろう詰め所の方向へと向き直った。
「それでは、こちらです。ミューズ様」
そういってミューズも此方に足を向けたのを確認すると、シャールは彼女に歩調を合わせてゆっくりと歩き出した。
きょろきょろと見慣れない庭園を眺めながら、詰め所に行き着くまでにミューズは道すがらよく喋った。
「ところでシャールは訓練中だったの?」
「え、まぁ、そうですね。丁度実技が終わったので、今は休憩中ですが・・・」
「そうなの。それはごめんなさい、休憩中に」
「いえ、とんでもない。むしろ・・・私は運が良かったのでしょう」
「え?」
「・・・いえ、なんでもないです。ところで先程あちらでミューズ様の名前を呼んでいる給仕がいましたが・・・」
「あ、そういえばマリスンのことすっかり忘れていたわ・・・。まぁ、大丈夫よ、うん」
「・・・というのが、私とシャールが初めて会った時のことなのですよ」
「うわー、なんかすっっごいロマンチックです!」
椅子に腰掛けて紅茶を飲みながらミューズの話を聞いていたサラは、すっかり興奮した様子で相槌を打つ。美味しい紅茶が手に入ったからとトーマスにお使いを頼まれて来たのだが、すっかり彼女はミューズとのおしゃべりに夢中になってしまっていた。
「じゃあじゃあ、あの裏庭で育てている薔薇ってもしかして・・・」
「ええ、あれが『ミューズ』です。自分の名前って思うと恥ずかしいですけれど、今は愛着も湧いてしまって」
「うわー、うわー!素敵!」
窓から見える薔薇に目を向けながら、サラは俄然瞳をキラキラさせた。
「因みにその時って、ミューズ様はおいくつだったんですか?」
「ええと、七年前のことですから・・・私が十五で、シャールが二十三ですね」
指折り数えるミューズに、サラは椅子に座りなおして居住まいを正すと、腕を組みながら眉間に皺を寄せた。
「八歳差かぁ・・・全ッ然イケますね」
「イケる?何がイケるのでしょう?」
「あ、いえ、なんでもないんです独り言です・・・あ、でも今の私と同じくらいの頃にサロン通いとか、やっぱりミューズ様ってすごいところで育ったんですね」
サラが慌てて話題を変えると、これにはミューズは苦笑を漏らした。
「ピドナ王宮は世界中の流行が集中する場所でしたけど、サロンは話題こそ事欠かないものの、すこし節操が無さ過ぎた感じはしますね。個人的には、ロアーヌやウィルミントンなどの文学サロンや芸術サロン等に憧れました」
ミューズはそういうが、生まれてこの方シノンを出たことが無かったサラには今一想像が難しかった。なにせ社交界とは無縁の開拓村生活だったからだ。とはいえ同じ村の出身のトーマスなどはそういった場所に出てもむしろ問題なさそうだし、最近出会った女性陣でもモニカやカタリナなどは生粋の社交界出身者だ。となるとサラと同じ感覚に陥りそうなのは、姉のエレンと友人のユリアンくらいか。ハリードは、お金が絡めば社交界でも何でも居そうな気がする。
と、そこに部屋をノックする音が聞こえ、ミューズの返事を待ってからシャールが顔を覗かせた。
「あ、シャールさん!今、シャールさんとミューズ様の出会いの話を聞いていたんです!」
出会い頭に興奮気味にそうまくし立てるサラに、シャールは目をぱちくりさせた後に、目じりに皺を寄せた。
「あぁ、王宮での話か。ミューズ様は、ゴンやミッチにもその話をよくするんだ。なかなかその頃のミューズ様は、お転婆だろう」
「まぁ、シャールったら!」
珍しく柔らかな笑みと共にそう話すシャールに、ミューズが可愛く頬を膨らませる。そんな二人を思わずニヤニヤしながら眺めるサラだったが、気付けばいつの間にやら夕刻が迫る頃合となっており、それを知らせに来たシャールに案内されてこの日は旧市街を後にすることにした。
「ところでシャールさんは、ミューズ様のこと好きなんですか?」
新市街に向かう道すがら、耐え切れずにサラは直球の質問をぶつけてみた。シャールはそんなサラの質問を聞いて、何故か得意そうに笑う。
「それは、秘密だ」
「あら、つれないわ」
どうやら、この手の質問はされ慣れているようだ。見事に打ち返されたサラは、しかしうんうんと一人で満足げに頷いた。
「でも、その方が周囲のやきもき感がたまらないから、むしろいいですね。色々考えるだけで、顔がにやけちゃいます」
「・・・ふっ、これは参ったな。サラ殿はトーマス殿よりもこの手の話題には一枚上手か」
「えへへ、最近は恋愛小説を読むのが趣味なんです。でも、事実は小説より奇なり・・・でしたっけ。今日はミューズ様のお話を聞いて、それを実感しちゃいました。」
そんなサラの様子に苦笑しながら返したシャールは、新市街へと続く階段までサラを送り届けると、ゆっくりと階段を上っていくサラの背中に向かって最後にこう言った。
「ただ、勘違いしないでくれ。私が今もこうしてミューズ様の下にいる理由は、ミューズ様が私の主であるという・・・その一点に限る、ということを」
その言葉に、サラは振り向いてにっこりと笑った。
「今は、それでいいんじゃないですか?」
その言葉に、シャールは参ったと両手を肩の上まで挙げながら応えた。そのまま上機嫌な様子で階段を上っていって最後に振り向いて手を振るサラに応えてから、シャールはふぅと一息ついて、主の待つ家へと引き返していく。
「今はそれでいい、か。全く、最近の若いものには敵わんな・・・。私も年を取ったものだ」
「ねぇミッチ、私ってお転婆かしら?」
「おてんば?なぁにそれ、おかしの名前?」
「えぇ、そんな感じ・・・」
「うん!じゃあおてんば!」
シャールを待つ間、主はクッキー片手に、同じくクッキーをほお張る小さな隣人にそんなことを聞きながら、まだぷっくり膨れていた。